成長期

1971(昭和46)年~1994(平成6)年

真空成形事業の成長とモリオカ商事株式会社の誕生

モリオカ商事株式会社設立

1979(昭和54)年8月、株式会社モリオカの販売会社である「モリオカ商事株式会社」が名古屋市西区に設立され、正三の長男、正幸が取締役社長に就任した。製造と営業の両輪での会社経営を推進していく体制が整った。この数年前に入社していた正幸の弟、幸英(後の常務取締役)も営業力強化に尽力した。

正三が見せた怒り

 1971(昭和46)年に株式会社に改組し、社名を「株式会社モリオカ」とした。シヤチハタ(株)のスタンプ台が、その前年に開催された大阪万博で大好評だったこともあり、仕事量は飛躍的に増えていた。日本の高度経済成長はピークに達しようとしていた。磯村はこの頃の会社の忙しさについて、こう語る。
 「長年一緒に働いてきて、温厚な会長が怒った顔を見たのは、後にも先にもこれだけです。今でも記憶に残っています」。
 ブリスターパックを作るため真空成形の技法習得に汗水流して取り組んでいたある日のことである。シヤチハタ(株)から筆ペンを3カ月で300万本製造してほしいとの注文が入った。
 ちょうど筆ペンが世の中に登場し、全国的に爆発的な売れ行きを示していた頃だった。組立、高周波ウェルダー溶着、箱詰めなど70名程度の会社の人員では、到底こなせる数ではなかった。日頃は温厚な正三も、この時ばかりは険しい表情だった。極限の状態だったが、正三は磯村と2人で加工会社を探し回り、40社近くに頭を下げ加工を引き受けてもらい無事に納めることができた。
 納品ができたことに対する安堵の気持ちと、周りの協力のありがたさを実感した出来事となった。この後、従業員全員で近くの料亭でお祭り騒ぎをして楽しんだというエピソードが残っている。
  • モリオカ商事社長就任時の正幸

  • 建築中のモリオカ商事

天性の経営者感覚

 本社工場が稼働を始めた1966(昭和41)年、20歳の正幸が入社した。住田家の長男として、正三の跡を継ぐのは当然のこととして父親の背中を見て育った。
 入社後はスタンプ台の組立や配送など、あらゆる仕事を経験した。作業効率を追うあまり、ウェルダー機で右手の人差し指を挟むケガをしたこともあった。さらに働き始めてからは数字の知識の必要性を痛感し、1年間、夜間の経理学校に通い、経営数値を読む力に磨きをかけた。

団地に通うお兄さん

 あくまでも効率を追求する、社長らしいエピソードが残っている。
 (株)モリオカで製造したパッケージに、シヤチハタ(株)の製品を内職先で箱詰めしてもらい、完成品を再びシヤチハタ(株)に納品する仕事をしていたときのことである。納品する箱の量がトラックに満載の時もあれば、半分に満たない時があることに気がついた。積載量が少ない方が作業担当としては楽であるが、会社全体としてみれば非効率極まりない。
 そこで、シヤチハタ(株)に交渉し積載量を増やした効率的な納品ができるようになった。一方で内職を担当していた団地の主婦たちに対しては、機嫌よく箱詰め作業を進めてもらえるよう、折りに触れ「お子さんと一緒にどうぞ」とアイスクリームやお菓子を持って通い、主婦たちと親交を深めた。このような工夫を日々重ねながらトラックでシヤチハタ(株)と内職先、工場を行き来していたのだった。
  • 設立当時は研修センターとしてのスタートだった

新事業へ

 真空成形の技術は、1960年代、卵のパックの製造をきっかけに日本に広まったと言われている。ちょうど、スーパーマーケットが台頭し、対面販売から陳列販売へと販売形態が変わりつつあった。あらゆるものが包装される、そんな時代の幕開けであった。
 正幸は、需要の最先端を見聞きする中で、真空成形に大きな可能性を見ていた。物を「包む」ことは文房具だけに留まらず、あらゆる業界に広がっていく。ブリスターパックは、これからますます成長が見込まれる分野になるに違いない。70年代半ば、スタンプ台加工とブリスターパック製造が軌道に乗りはじめたころ、正幸は「真空成形の技術をさらに強化し、販売先を広めたい」と考えるようになっていた。
しかし、こうした夢を抱いた矢先、正三と共に創業の礎を築いたメンバーが独立した。悔しさを感じる一方で、夢を実現させたい思いがより強くなった。だが、販売会社の立ち上げ構想は、簡単に実現はできなかった。堅実を重んじる父親と、チャレンジ精神に富んだ息子と、経営に対するスタンスの違いがあった。
 しかし、2人は話し合いを重ね1979(昭和54)年、名古屋市西区にモリオカ商事株式会社が誕生した。恵方町の営業所を吸収し8名程の陣容でスタートした当時の思い出を、社員はこう語った。
 「20坪ほどの恵方町の事務所と比べ、新しい事務所は広すぎて殺風景だったので、最初はみなソワソワしていました」。

 モリオカ商事(株)が設立されるまでには、このような紆余曲折があった。33歳で取締役社長になった正幸の、新しい船出であった。

宮森との出会い

 社長の信念に共感しそれを支えたのが、1979年に入社した宮森清だった。2人は、名古屋の吹上ホールで開催された展示会で出会った。そこで意気投合して付き合いを始めた宮森に「宮ちゃん、今度会社を新しく立ち上げるんだ。一緒にやらないか」と声をかけた。
 かねてから、社長の人柄に魅力を感じていた宮森は「新会社設立を支えたい」と入社を決断。ここから、40年近くにわたる社長と宮森の二人三脚での新たな時代がスタートした。企業経営は人との出会いによって支えられることを痛感した社長は、この頃より「一期一会」を自身の座右の銘とするようになった。
  • 真空成形のトリミング工程と検品作業を行う会長の妻・幸子(中央)

真空成形を事業の柱に

真空成形事業の誕生

 当グループのお客さまは、現在自動車や半導体、医療、家電などの幅広い業界にわたる。「モリパックスさんは素晴らしいお客さまに恵まれていますね」。そういった言葉をいただけるのは、会長や社長、従業員に至るまで、グループの全員が「一期一会」を大切にしてきたおかげかもしれない。
 モリオカ商事(株)設立以来、真空成形をコア技術としたパッケージ製品の販売を進めるうち、文房具業界以外の業界にも、取引先が大きく広がった。その中には中部原材料株式会社(現在の株式会社チューゲン)や松下電工株式会社(主な取引先は彦根工場。現在のパナソニック株式会社アプライアンス社)という、当グループの発展の源となったお客さまとのご縁がある。
 80年代に入り、時代の潮目は変わりつつあった。国内では、高度成長期が終わりを迎え、大量生産から多品種小ロットの生産が求められる時代になったのである。海外向け輸出品目でも、それまでの繊維関係に代わり、自動車や家電など、複雑で精密な加工と組立を要する機械・機器類がトップに躍り出た。
 こうした機械・機器類を製造するには、「運ぶ」プロセスが欠かせない。工場内ではベルトコンベアが組立部品を「運ぶ」、それを加工するために別の工場に「運ぶ」。そのような輸送を数十回、数百回繰り返して、やっとひとつの製品が完成する。この「運ぶ」工程で必要になってくるのが工業用トレイであった。
 真空成形では、顧客の要望をシートと型で自由自在に形にすることができる。この分野の先駆者である当グループにとっては、業界を超え、顧客や製品群を拡大するチャンスが到来した。
 とりわけ愛知県は、自動車王国のおひざもとである。そのため大きく広がりを見せたのが、自動車部品搬送に関わるトレイについての引き合いであった。自動車業界と強い繋がりを持っていた(株)チューゲンからは、相談を受ける機会が増え、取引における強い関係が生まれはじめたのは、この頃からであった。
  • 当時の会社案内(上)と 事業を紹介したページ(下)

自社初の真空成形工場を建設

 会長の弟、光明(後の相談役)の縁で、1975(昭和50)年にシノダ化工、1980(昭和55)年には有限会社コヤマ化工など多くの生産協力会社とのご縁ができた。パッケージや工業用トレイなどの真空成形品の需要は増え、真空成形の草創期を共に過ごしてきた協力会社だけでは、こなしきれない程の仕事量になりつつあった。
 工場増築についての構想は当初会長の同意を得られなかった。目先の受注は増えても、先行き不透明な中での工場建築に、難色を示したのである。社長は何度も会長と合意形成を図り、最終的に社長の意思が尊重された。
 こうして1984(昭和59)年1月本社工場近くの土地を整地し、自社初の真空成形工場(現在の北工場)が建てられた。工場完成直後は、大きくなった製造力ほどの注文はなかったが、数カ月後には、多方面からの受注により、真空成形ラインはフル稼働を始めた。
 後に協力会社の社長がこう語っている。「1990年の慰安旅行での会長からの言葉が今でも忘れられません。『あの時真空成形をやってくれてありがとう。今、真空成形が大きな柱になっているのは君のおかげだよ』」。
 現在も当グループは、多くの生産協力会社に支えられている。
  • 当時の会社案内(上)と 事業を紹介したページ(下)

  • 金型製造拠点のひとつだった新開工場

開発力強化への序章

 製造と販売の機能が備わったことで、この両輪の繋がりをさらに強化したいと考えた社長は、開発力強化の構想を描きはじめた。この構想が、1984年11月「株式会社ヒューマン・コーポレーション」として形になった。社名には人間(ヒューマン)との繋がりや製造・販売の繋がりへの思いが込められている。
 物を入れて運ぶトレイを作っている会社だからこそ、中にいれる「製品」づくりに挑戦したいという思いが、この開発構想に結びついた。糖度計、携帯蚊取り器などの製品開発に取り組んだが、膨大な開発費や自社の実力不足もあり、事業化へは至らなかった。しかし、今でもこの頃の開発への思いは、社長の心に強く残っている。
 こうしたなかで、モリオカ商事(株)設立当初から事務所1Fの倉庫スペースで細々と取り組んでいた木型作りの強化を目指すことを決めた。金型内製化への本格的な一歩だった。
  • 本社新館の竣工式(上)と完成社屋(下)

次世代へのバトンタッチと社名変更

 1991(平成3)年4月、正幸はモリオカ商事(株)に加え、(株)モリオカの代表取締役社長にも就任した。正三は当グループの代表取締役会長に退き、社長をサポートする立場となった。
 1992(平成4)年3月には、シヤチハタ(株)の増産に備えて、第2工場(現在の本社新館)を竣工した。バブル期はピークを過ぎていたが売り上げは順調に伸びていた。
 そして1993(平成5)年12月モリオカ商事(株)は、「モリパックス株式会社」に社名を変更した。モリパックス=モリオカの名とパック(包装)という英語を組み合わせたその社名には、「包み」のプロになる決意と、将来的な海外進出を見据えたねらいがあった。
  • 1992年、中島郡平和町(現在の稲沢市平和町)で 展示会を開催

創業期

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成長期

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展開期

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深耕と開発

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