展開期

1994(平成6)年~2010(平成22)年

海外への挑戦

海外進出へ

 製造工場の建設、販売拠点の拡大―1990(平成2)年には東京(足立区)に営業所を開設。国内での製造から販売までの体制を整え、組立加工と真空成形を軸として当グループはますます発展していった。顧客層も、自動車業界に加え、家電業界などに広がっていった。
 そんな時、取引先の一つであった松下電工(株)彦根工場から声をかけられ、当グループは、挑戦の舞台を海外に広げることとなった。1993(平成5)年のことである。

「中国へ一緒に行かないか?」

 松下電工(株)との取引は、1980年代初め頃から始まっていた。主な取引は、家電製品のパッケージや製品の組立加工、オイルの充填加工であった。大阪や滋賀、三重を拠点にする松下電工(株)に対し、より迅速な対応をはかるため、1987(昭和62)年の三重営業所開設を皮切りに、大阪営業所、滋賀営業所を相次いで設立。信頼関係を構築しながら、営業活動に努めていた。そんな時、担当者から中国視察に誘われたのだった。

森岡香港有限公司の誕生

 当時取引のあった彦根工場の事業部は、中国華南地区へ製造拠点を新設しようとしていた。長年の取引実績があった当グループが海外進出の打診を受けたのはこの頃だった。当グループの企業規模で、果たして海外での対応ができるのか。不安はあったが願ってもないチャンスでもあった。「これを逃したら、松下電工(株)との結びつきが弱まるのではないだろうか?」という危機感と、「お客さまの要望に応えたい」という使命感が、当グループの海外進出への一歩を後押しした。繰り返し構想を練ったすえ、1994(平成6)年11月、香港に貿易会社を設立した。森岡香港有限公司(MPX香港)の誕生である。
 まずは、米ドルでの決済でイギリスの植民地であった香港を通して、製品を中国広州市番禺にある松下電工(株)の中国拠点に納める体制を作り上げた。これを中心になって担ったのが、宮森である。宮森は、社長からの命を受け香港・中国事業の責任者として事業の構築から展開に向けて、身を粉にして尽力したのだった。
  • 1994年 香港中心街の尖沙咀に事務所を設置

  • 1995年 恵州のパートナー企業と

  • 現在の入居ビル(上)と事務所(下)

「一期一会」の中国事業

 なじみのない中国で、製造の委託先を見つけるまでの道のりは困難を極めた。そんな窮地を救ったのが、「人との出会い」であった。宮森は、かねてから海外展開における情報収集に努めており、その人脈から、後に強力な製造委託先となる中国恵州市にあるメーカーの紹介を受けた。さらに、当時の現地駐在員からの縁で、日本の大学に通う中国人と知り合うこととなった。中国事業の要となる「蒙牧原(モウボクゲン)(MENGMU YUAN)」であった。
 蒙は、社長と宮森の想いに触れ仕事のイロハも分からないまま恵州の製造委託先へと飛び立ちすぐに検査員の募集を始めた。そして集まった約10名と共に、松下電工(株)向けの製品の検品作業をスタートさせた。1996(平成8)年頃のことであった。この時の検査員の中に、のちに蒙と共に中国ビジネスを担う霍晓立(フォシャリ)(HUOXIAO LI)と黎妙芳(リミャオファン)(LI MIAOFANG)もいた。

海を渡った成形第一号機

 香港進出を機に、日系企業からのパッケージ製造の引き合いも徐々に増え始めた。中国現地での製造を目指し、(株)モリオカに導入した成形第一号機が海を渡った。当時、最新鋭の真空成形機として、恵州市の新聞にも取り上げられるなどして話題になった。ところが、肝心の技術者がいないため不良品ばかりが生産されていた。そこで、(株)モリオカから成形オペレーターを派遣したり、製造委託先の中国人に対し日本で研修をおこなったりするなどして、粘り強く品質向上に努めた。
 一方、蒙は、中国人である強みを活かし、現地でのさらなる製造委託先の開拓に奔走した。テーマパーク向けのキャラクター商品や企画商品の貿易を始めたのも蒙のアイデアによるものだった。このような努力を経て、製造委託先との間にも、団結力や強い絆が生まれはじめた。
  • 霍晓立(左)と黎妙芳(右)

  • 森岡清渓工場

人民元取引への転換

 中国政府は改革開放による市場経済を決定した1979年以降外国企業の受け入れと国内体制の改革をおこなった。中国国内での現地調達の動きも加速し、人民元での取引が推奨されはじめた。香港を通じ米ドルで中国へ納めていたMPX香港にとっては大きな痛手となり、売上は急落した。
 中国に工場を新たに作り、生産体制を確立することは容易ではなかったため、蒙は人脈を頼りに中国での取引を継続する術すべを探った。幸い、良き製造委託先との出会いには恵まれたが、生産環境や技術力は顧客の求める品質レベルには至らなかった。MPX 香港の厳しい状況は続いたが、製造委託先と共に、技術力の強化や生産環境の整備に努めた。そのかいあって、品質も向上しはじめ、中国納品ができる環境が整ってきた。

中国にはじめての自社工場が誕生

 2001(平成13)年頃、シヤチハタ(株)の中国進出の計画が持ち上がった。製造委託先頼りの生産体制には限界も感じ始めていた宮森と蒙は、安定した生産体制を整備するために、自社工場として中国本土への正式な進出を決め、東莞市清渓(ドングァンチンシ)にある名立(ミンリー)工業区の貸工場の一つを借りた。森岡清渓工場は、従業員は約30名、来料加工、進料加工という中国華南地区独特の製造形態でスタートした。
 シヤチハタ(株)との仕事は、日本と同じく組立加工が主であったが当初は品質も技術力も日本のレベルとは程遠く、苦労が絶えなかった。そこで、技術支援のため、(株)モリオカから社員約4名を派遣1名は工場長として、組立加工についての教育や製造体制の構築に当たった。当時最年少で森岡清渓工場に派遣された社員はこう振り返る。「滞在は約3ヶ月にもわたりました。当時はインフラも生活環境も整っておらず、正直辛いことも多かったです。ただその苦楽を共にした経験があるからこそ、現在、中国工場のスタッフと気心が通じて仕事ができているのだと思います」。
  • Keyword

    来料加工

    香港の会社が原材料・部品などを中国側へ無償で提供、中国側は製品に加工して香港の会社に輸出。その輸出品の加工賃金を香港で決済し、中国側に支払う方式。中国国内への納品は可能だが、販売は禁止されている。

    進料加工

    原材料・部品などを海外や中国国内で調達。中国国内で加工を行えば、製品は国内外で販売できる。決済は中国国内。

合併会社の設立

 森岡清渓工場での組立加工業が少しずつ軌道に乗りはじめた2000年代半ば、自動車関連企業の中国進出がさらに加速していった。そこで(株)チューゲンと共に中国での製造販売の強化を決めた。しかし、ここでまたしても大きな壁となったのが、中国の政策であった。外国企業は、中国国内での販売活動に制限があったのだ。
 そこで、日系自動車メーカーの工場へのアクセスがよい深圳地域にあり、外国企業でも販売活動が可能な福田保税区内に、販売会社の拠点を構えることにした。製造拠点は、森岡清渓工場から福永地区にあった工業団地へ移した。加えて、自動車メーカーへの納品をよりJITで対応するために、中山地区に分工場を置いた。そして、ようやく2005(平成17)年、販売会社として「中原森岡包装材料(深圳)有限公司」を製造元として「森岡中原塑製品(深圳)有限公司」の合弁会社を設立した。
  • 中国での拠点の足跡

中国ビジネスの洗礼

 中山分工場では、自動車メーカー向けの包装資材の組立や検品業務を始めた。真空成形品は福永工場で製造した。日本からも営業や設計者が支援のために派遣された。ところが、まもなくして当社の設計を模倣した包装資材が、客先に出回りはじめた。決まりかけた案件も、すぐに中国地元企業に転注されていった。品質第一を掲げる当社には、地元企業との価格競争に挑む戦略への選択肢はなかった。2年後には中山分工場の閉鎖を決め、本社機能の福永工場に統合することとなった。
 この工場統合による各部門の集約は、再出発に向けての新たな強みとなった。中国で事業を続けていくには、中国という国をよく理解しその政策に適応していくことがいかに重要で難しいか、中国香港へ進出してからの約15年間で痛感した。

福永工場での再スタート

 2008(平成20)年、3階建ての建屋2棟での再スタートを切った福永工場の主な業務は、組立加工と縫製品の検査、真空成形の製造である。日本企業としての誇りを胸に、日本企業らしい運営をしていこうと、宮森や蒙は、新たな夢に燃えていた。
 生産管理、品質管理が一元化され、またTV会議システムで日本の設計者と密にコミュニケーションが取れるようになった。これにより、取扱製品に左右されることなく、QCD(品質やコスト、納期の改善)に取り組むことができ始めた。さらに「環境」という新たなテーマを掲げた。クリーンな生産環境を整備し、Made inChina のイメージを向上させたい。このようなねらいから、ISO取得に挑戦し、同年10月に、ISO9001、14001を取得した。
 さらに、パートナー企業であった縫製工場の設備を購入し、縫製事業の内製化に取り組み始めた。中国では男性を含め、縫製技術の高い人材が多く、専門人材の募集もしやすく、生産から検品の一貫生産体制が整いつつあった。中国においても、日本と同様に顧客の事業内製化や価格競争があるために、協業先ネットワークの強化や製造コスト低減への努力が不可欠であった。そのなかで、縫製事業の強化に舵を切ったことは、その後の中国事業の大きなターニングポイントになったのである。
  • 中山工場外観(上)と工場内部(下)

  • 福永工場外観

リーマンショックからはじまった改善活動

 福永工場で心機一転、事業をスタートさせた矢先、世界規模の金融危機「リーマンショック」が発生した。当グループにとっても影響が甚大であったため、企業存続への取り組みがグループ全体で始まった。その一つが「緊急収益改善委員会」の立ち上げであった。
 様々な改善策を講じたが、国内外を含めたリストラによる収益改善は、一切おこなわなかった。「ご縁」を大切にする社長にその選択肢はなかった。
  • 2000年からの約10年間
    中国人実習生の受け入れをおこなっていた

創業期

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成長期

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展開期

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深耕と開発

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